20歳夢追い人から40代社畜嫁が怖いになるまで

20歳一人暮らし大学2年生。ドラム、小説、オードリー、旅行が大好きです。自分の言葉を持っている人が好きです。

最近

最近ブログを書いていなかったなと思いながら、今書いています。


こんにちは。


最近は本当にたくさんの本と音楽に触れるようにしています。
でも今読んでいる「自分の中に孤独を抱け」という本で岡本太郎が現代芸術を依頼主のいない、職人気取りが作る芸術風のものと言っていて、納得できるような少し悲しいような気がしています。


たしかに、音楽とかお話を作るのを仕事にしている人たちはお金を得るためにそういうものをつくっているのかもしれない。世間の流行を気にしながら、その時代にはまるような芸術を作っているのかもしれない。自分ももし売れる曲とか小説を作るとしたら、そうなっていくのかもしれない。


最近は作家という人間に興味があって、いろいろなインタビューを見る機会が多いですが、とても面白い人たちの集まりだなと思っています。自分の言葉を探した末に編み出してる感じがかっこいいですよね笑


自分の言葉をもっている人にほんとに憧れるんですよね。自分が言葉に自信がなくて、小さいころから何言ってんのかわかんないといわれ続けて、もう21歳になって、自分の言葉を探しています。


現代の個性感って例えば、流行というバスに乗り遅れたとしても、僕はそれに乗らずに逆方向に歩いていくんだぞというような意思表示なのかなって思ってて、それが少しちがうんじゃないんかなと考えています。


自分の個性って、ほかの人がやっていないことをやるというよりも自分が考え出したものが形になった時自分の言葉を持っていると言ったり、自分だけの個性と言えたりするんじゃないかなと思います。


それが、奇抜だったりキャッチ―だったりすると売れるから個性と呼ばれているだけで、それは個性をバスと逆方向に歩いていく人間ととらえているような、街の中で裸で踊った人間が一番個性的だといっているような気がして、それが少し詰まんないというか。


個性は自分だけのものだし、個性を出したいって思ったら、自分で何かを作ったら自然と出るものなんじゃないかなと思います。


だから売り物にするためには、どうやってバスと反対側に歩くかという話じゃなくて、個性は自然に出てるんだから、その個性的な作品をどうやったらお金にできるかっていう技術を身につけたらいいんじゃないかなって思いました。


なんか自分がもの売ってからいえよって感じなんですけど、自分の考えを整理したくて、書いておきます。

信じて

戦争と平和が相対して紙一重なように、人を信じることと人を裏切ることは紙一重である。


こんにちは、


恋愛とか友情って人間関係の中で一番難しいと思うんですよね。
社会的なつながりって表向きは仲良くするけど、裏ではどう思われていてもかまわないというような付き合い方じゃないですか。人はそれを大人な付き合いといいます。じゃあ大人になったらそういう表向きの付き合いだけやっていればいいのかというとそうではないと思います。恋愛や友情というのは年齢を重ねたからと言って尽きる悩みではないと思います。
恋愛とか友情とかで結ばれている相手って、相手のことを嫌いになったら、壊れる関係なんですよ。というより、壊れるべき関係なんですよ。喧嘩とかはさておきですが。壊れるべきっていうのは、壊れた方がお互いのためという意味ですが、婚姻関係などを結ばない限り、そこには、あまり利害関係は発生しません。利害関係があるそれらの人間関係はどこかで、大人な付き合いが発生するからです。純粋にその人と一緒にいて、楽しいだとか、なぜかわからないけど一緒にいたいと思うからこそ、恋愛や友情が生まれるのです。
私は声に出すのがあまり上手な人間ではないので、恋愛や友情関係で、相手のいやな部分が見つかった時にそれを相手の人に言ったりすることができません。よって、その部分がいつまでも気になって、最終的には嫌いになります。じゃあ言えばいいじゃんというかもしれませんが、そういう簡単な問題ではないのです。
言えばいいじゃんといっている方は、相手の嫌いな部分を相手にいえるのでしょうね。うらやましいです。その場で思ったことを言えないのは、思ったことはあるけど、言いたくないのではない。その場では、相手のいやな部分を目の当たりにして、それを嫌いだと思っているだけなのです。その場では感情が胸の内をもやもやさせるだけといいますか、感情がただ、沸き起こって、その感情を止めようとする方向に神経を集中させているので、外に出している余裕などはありません。その場で感情を出せた方が、人間関係はうまくいくと身近な人は言いますが、ほんとうにそうでしょうか。身近な人は人間関係が上手なので、正しいのだと思います。ここでは、私の考えに付き合ってください(笑)
私は人を悪く思うのが、悪いことだとおしえられてきました。人を悪く言ったり人に悪さを働いたりすることもです。だから悪く思ってしまうこの感情をどうにか沈めようととしてしまい、それが蓄積され、嫌いになってしまうのです。たとえその時々に愚痴をこぼしていたとしても、結局その蓄積量にはかなわないのです。人に愚痴を言うこと自体私はあいつが愚痴を言っていたと本人に告げ口をされたことがあるので、簡単には人を信用しません。ほんとに人を信用しなくなってしまいました。よって、身近に愚痴を言える人が限られるほどしかいないのです。そうなってくると、愚痴をこぼすよりも先に嫌いという感情のほうが先に限界まで来てしまうのです。友だちであっても、いやなところは必ず出てきてしまいます。いやなことが一つ出てきた時点で私の中ではその人との関係が終わったなと思うのは、蓄積して、嫌いに転換していくことを先に予期しているからなのです。私は、友情も恋愛もずいぶんさめたものとして、理解しているのだと思います。今の彼女も一年半付き合ってきて、ようやくあんまり好きじゃない部分を言えるようになって、自分とつきあっていたいなら直して、などと傲慢にいうことはないですが、徐々にいえるようになって同時に信用し始めました。身近にいる彼女ですら、このように信用するのに膨大な時間をかけるので、友だちづくりとかもめんどくさいなと思ってしまいます笑


私は今大学生ですが、ここまで、ずいぶん競争してきたように思います。スポーツなどでは、足が速い人たちに勝ちたくて、陸上クラブに入って、早く走れるようになったり、勉強では、高校受験や大学受験で、ランキングをみて自分はダメな人間だなと思ったり。音楽では高校で軽音部に入った時に経験者になめられないように、先にギターを習い始めたりと、新しい環境や、新しい競争に入っていくときには、必ずスタートダッシュを切ろうとしたり、ひたすら努力できるような才能があると思います。ですが、競争に精神をすり減らしすぎたせいで、もう体が競争することを拒否しているのです。大学受験の時には、もうずいぶん競争するやる気がなくなっていました。競争することは、とんでもなくエネルギーを使うものだと思いますし、その競争を勝ちに行くとなると、一秒も気を抜けない期間が勝つまで続いてしまうし、私は高校受験で勝ちにずっとこだわっていたので、そのつらさを知っています。競争は本当につらいです。
ここから、社会に出て、年収やら階級やらで判断される、つまり、強制的に競争をさせられる世界では、競争といったら勝ち以外目指せない自分がいたら私が死んでしまうと思いました。しかも自分がやりたいことではなく、他人に競争を強制させられる。それが、いやでいやで今、こんな自分でも競争を感じさせない、生活がどこかにないかと探しています。
今やっている音楽も時間が限られている中で、どれだけ多くの人を感動させられるかのような競争にさらされて、毎日精神をすり減らしています。一刻もはやく自分が競争しなくてもいい世界を探して、そこにいきたいと今自分のなかでまた時間と競争しています。もうやだ笑





疲れましたね。





日本が競争して勝つことこそを最大の喜びとして考えているのでしょうか。それとも、私が、競争して勝たないとその先には何もないと思い込んでいるのでしょうか、それとも世界のどこにも、競争がない場所なんてないんでしょうか。世界のどこにもそんな場所がないなら、私は残りの人生楽しいことなんてないと思います。上には常に上がいる。そんなことを考えてしまう私ですから、自分よりも頑張っている人は必ずいる。と考えてしまって、その架空の人物に負けていると判断したらそこから競争開始です笑




人生ってつまらないですね。




もっとおもしろいと思ってました。誰の下にもいたくないというわけではないんですけど、この死ぬほどつまらない今の状況を早く脱せる世界を血眼で探していきたいですね笑


誰が一番早く見つけるかの勝負じゃない。


って言いたいですね。


これが自分の世界です。


って言いたいですね。


その時私は本当の意味で人生を楽しめると思います。いまから始める最後の勝負はそこを死ぬまでに見つけるかどうかです笑
自分との勝負ってやつです。


最後まで読んでくれて、ありがとうございました。

あおぞらリボン

こんにちは、「境遇」という湊かなえさんの作品を読ませていただきました。


私が読んだのは、「告白」「リバース」に続いて三作品目だったのですが、今回一番衝撃を受けたのはラストなのですが、ラストの衝撃だけでは説明しきれない衝撃がありました。


この作品は主人公の陽子の息子、裕太くんの誘拐事件で真実を公表しろと書かれた脅迫状を受け取るところから始まり、陽子自身の過去や、児童養護施設にあずけられたという同じ境遇を持つ親友晴美との関係を知っていくというようなお話です。


物語のラストで裕太くんを誘拐し、脅迫文を事務所に送ったのは、晴美だったことを知ります。晴美は陽子が殺人犯の娘で、自分がその被害者の娘ということを知り、なぜ、殺人犯の娘が出した絵本がベストセラーとなり、結婚し、幸せな人生を送っているのかという憎さから、行動をおこしたといっています。ただ、晴美がそれを知る以前から作ってきた陽子との絆があるので、陽子が自分の両親が殺人犯だということを知って、苦しむのを見るのがつらかったと告白。


しかし、最後の最後で、ほんとうは晴美が殺人犯の娘で、陽子はその事件とは何の関係もないことが発覚した。陽子は最後に晴美に裕太を誘拐したことを許すというわけじゃないけど、終わりにしようといっている。


この終わりにするとは自分たちの境遇に縛られて生きていくことを終わりにしようということだと思う。お互いがどんな環境で生まれてきて両親がどういう人かどうかということが大事なのではなくて、そこから、晴美と陽子が作り上げてきた絆のほうが大事なんだということだと思う。


この作品には陽子の夫の正紀も境遇に恵まれないことが書かれている。陽子は有名なテレビ番組で、晴美は新聞記者なので、新聞で、正紀は会見でそれぞれ自分の過去を告白している。ここには、三人の今までの境遇に縛られた考え方からの脱出を試みようという決意が感じられる。境遇は消えない。だけど、境遇を受け止めて、自分自身の行動が自分という人間を表しているんだと、主張しているようにも思う。これは、境遇で悩めるすべてのひとへのエールだと思う。


境遇に関して、世間の風当たりはまだ強いと感じる。テレビに父が出ていたら、父と比べられ、父ありきの自分として世間に受け入れられる。初登場の時にだれだれの息子、娘と紹介されたら、それをずっと背負ってテレビに出ていく。それで、父が不祥事を起こしたら、自分も責任を負う。家族のせいでもあるんじゃないかと。世間は本人だけではなく、家族も逃がさない。


ただ、私の身の回りの人間を殺した人の息子が幸せな生活を送っていたら、私もそれを許さないと思う。この作品のように、相手の境遇と自分に起きたことを受け入れて、生きていくしかないのだと思った。


今から話す内なる怒りに関しては今後黙っていたいのですが、関係ない人間が、八つ当たりのようにオンラインで人を誹謗中傷するのは、悪い文化だと思う。インターネット社会がもたらした不利益だと思う。


自分が高いところから見下ろしている人間でいたくないからこそそうおもうのかもしれない。自分は高いところから見下ろしているようにふるまう癖があってそれをずっと治したいと思っているかもしれない。それをコンプレックスにしているからかもしれない。中身のない人間だけど、それを嫌っているからかもしれない。関係者以外が人を悪く言う世間に嫌悪感があるし、何より、自分が一生そうなりたくないと思っているから。でも自分は気を抜いたら、そっちに行ってしまうかもしれない。中身がある人間ではないから。ただ、中身がない人間を脱したいとも思ってます。そのために私はいつまでも発信者でいたいと思います。


あえて、誹謗中傷される側でいたいのです。自分がする側に回ることがないように、発信者でいたいと思いました。以上です。